中村祐造氏死去
もう一週間以上前ですが、7月20日に1972年の第20回オリンピック(ミュンヘン大会)に男子バレーボール日本代表主将としてチームを支え金メダルに導いた中村祐造氏が脳出血で亡くなりました。68歳です。私と同じ4月29日生まれ(昔は天皇誕生日、平成になって「みどりの日」に、今は昭和の日)の中村氏の訃報を見て、あの頃を急に思い出しました。
女子バレーに比べてやや劣っていた男子バレーの人気をオリンピックまで高めていこうというバレーボール協会と松平監督の戦略で、テレビ番組「アニメ・ミュンヘンへの道」なども放送されていました。オリンピック前の試合の放映方法にも工夫がされ(画面にはいつも大勢の応援の人が映っていて、盛り上がり感が溢れていました。実際にはテレビに映る範囲に応援している人を集めていたそうですが)、大会前から日本国内の話題をさらっていました。
当時高校に入学し、待望のバレー部に入部した私は、オリンピック前から異常に盛り上がっていました。男子バレーは準決勝の対ブルガリア戦でセットカウント0—2からの奇跡の逆転劇を演じ、そして決勝に勝って金メダルを獲得しました。
対ブルガリア戦は確か夜の放送だったと思いますが、隣のおばさんが「悲鳴が聞こえたけど、大丈夫ですか?」と心配して我が家に来るほど、大きな声を出して盛り上がって応援していました。主役は大古、森田、横田の3人でしたが、中村氏は主将として、チームをうまく纏めていました。
この大会期間中にはパレスチナゲリラが選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃し、多くの人命が奪われるという悲劇もありました。色々な面で、印象的なことが沢山あり、テレビに釘付けのオリンピックでした。
進学校(都立富士高校)に入学したにも関わらず、周囲には文武両道の人も大勢居たのに、私はバレーボールと今も一緒の友人達との出会いに興奮し、没頭していました。成績はドンドン下がりましたが、友人達の絆と、アタックはドンドン進化していきました。今の私の原点はあの暑い夏がスタートだった気がします。