家人(かじん)という存在

私のブログを読んで下さっている方達から、「家人」ってどういう意味で使っているの?と聞かれます。正直正しい使い方かどうか分りませんが、この響きが好きです。随分前に、作家で作詞家でもある、伊集院静氏が、再々婚した後の雑誌のコラムの中で、再々婚相手の篠ひろこさんのことを、家人と表現していました。「何だか良いなぁ」と思い、今回ブログの中で使っています。

私と家人はまだ3年程度の付き合いですが、今回私が発症して、生活、仕事全面でサポートしてくれています。50歳を過ぎてからの付き合いですから、価値観の相違も随分ありますので、ある意味、日々戦いです。

しかし発見の日々でもあります。発見は家人の考え方やモノの見方の中にもありますが、家人とぶつかることで、自分に対する発見もあります。薄っすら分っていたことが、ハッキリする場合もありますし、「えっ!」という自分に対する驚きもあります。

初めに驚いたことは、これだけ強く人に対応しているのに、自分が物凄くあらゆる面で怖がりであるという事実です。もう一つは神経質なのに、根本は脳天気な性格だったことです。落差の大きい自分の二面性に今更ながら驚かされます。でもこの年になっても自分や身の周りのことに新たなものを感じる、見出せるのは素敵なことだと思っています。

小さい頃から私を知っている友人も、ビジネス社会に出てから知り合った友人や知人も、私の宝です。そして家人という彼の存在はこれからの私の成長と進歩に大きく貢献してくれて、宝になると思っています。

世の中のあらゆるものを感じることの素晴らしさと人との出会いの素晴らしさを感じる日々を送っています。あらゆるものとの対峙と人との対話の中に「私の生き方・働き方」を選択したり確認したりしているのだと思います。

 

 

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