●何故、完全を求めるのか?

 

人には無限の可能性がある――これは私の信念です。でも、それ故のジレンマもあります。出来ないことがあると、可能性はあるはずなのに、「何故出来ない?」「それ以上に何故努力しない?」と哀しくなってしまいます。不完全だと落ち込んでしまいます。これは自分の事ですが・・・。

 

でも考えてみると、自分に対しても、他者に対しても、完全を求めるのはいいことではありません。人にはそれぞれ “出来ること” と “出来ないこと” があって、それは自分でもどうしようもないし、ましてや他者にとやかく言われても如何ともしようがありません。

 

私たちはどうして、「かくあるべきだ」を盲信するのでしょうか? 上司に対しても、パートナーに対しても、恩師に対しても、政治家に対しても。今だとサッカー日本代表選手に対しても。何故完全を求めるのでしょうか?

 

「こうありたい」「こうあって欲しい」は、あくまでも自分の満足感のためで、自分も含む相手に対しての期待ではないのです。

 

完全を求め過ぎると、世界が狭くなり、息苦しくなると思うのです。腹八分目、過ぎたるは及ばざるが如しという言葉が示すように、程ほどとか、少し足りないぐらいが丁度いいのではと思うのです。

 

私は身体が不自由になってからのほうが、以前よりも大らかになり、少し優しくなり、かえって物事の判断が早くなったような気がします。完全が求められなくなったからだと思うのです。

 

完全を求めて生きるのは、無限の可能性もブロックすると思う今日この頃です。

 

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