嬉しい知らせ
「今日、内定もらいました!」という電話が親友の息子から届きました。「嬉しい知らせ」はいつでも歓迎ですが、今回の知らせは首を長くして待ち望んでいたものなので、嬉しさはひとしおです。
厳しい経済状況や雇用環境の中での就職活動は勿論本人が一番苦しいでしょうが、一緒に活動も出来ず、結果を待っていることしか出来ない親もかなり厳しい心境だったと思います。「智ちゃん良かったね!貴君おめでとう!」
思えば、「知らせ」は時として省略されることもあります。「もう分っているだろうから、敢えて知らせなくても。大したことじゃないから、敢えて言わなくても」と思ってしまうこともあります。でもやっぱり言葉にして伝えていくことが大事だとこの頃思います。
私の体から届く知らせは小さな他愛の無いものが多いです。手の小指がピクッと動いたとか、上腕筋に力を少し感じるとか、以前なら何とも感じない知らせばかりです。でも、後遺症と一緒に戦ってくれている家人はその「小さな他愛無い知らせ」に喜んでくれます。本当に牛歩の歩みよりも小さな進展に「日々変化、一日に2ミリ進んで1ミリ後退する。1ミリでも後退するとそれが気になって駄目だとつい悲観してしまうけど、差し引き着実に1ミリずつ進展しているんだよ」と言います。
この程度の進展を敢えて周囲に知らせなくてもと思う私とは大違いです。「知らせ」を貰って、それをどう感じるかは相手任せ・相手次第です。なので、出来れば受け取った相手にとって有意義な内容を知らせたいと思ってしまい、知らせることを躊躇することがあります。
でも今回の内定の知らせで、自分の気持ちに問いかけてみて改めて分ったことがあります。大きな嬉しい知らせは本当に素敵だけど、「深く」嬉しかったのは、自分が気に掛けていた相手からの連絡だからです。やっぱり家人のように「小さな他愛無い知らせ」でも待っている人にとっては、大事な知らせだというスタンスに立ちたいと改めて思いました。